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『大学でわざわざサッカーをする理由』 #3 大村拡平

*自分で読み返してもこいつ自分大好きなんだなぁと言う文章になっています。うざかったら途中でやめてください。このブログを理由に嫌いにならないでください。

*サッカー選手としての才能も努力も大したことない自分が15年間続けて来たということだけで偉そうなことは何も言えませんが、15年間続けてきたご褒美として偉そうな文章を書くことをお許しください。

 

 

 

 

 

「おむってそんなサッカー好きだったっけ」

地元の小学校で最後の2人(1人)の「部活でしっかりサッカーをやっている人」になった自分は、大学一年のときに久しぶりに会った小学校時代のチームメイトにこんな事を言われました。

その通り、20歳をすぎても週5でやる程、プロを目指すわけでもないのに素走りをする程、サッカーは好きではないです。間違いなく。

この言葉は、小説的に言えば「喉に刺さった魚の小骨のように」ずっとモヤっと残っていました。

 

 

 

思い返せば、とても恵まれたサッカー生活だったと思います。

小4までは、試合には出ているけど有名な選手として名前が上がることはまずない様な選手でした。

小5で市内一のクラブに入団したのが自分のサッカー人生で1番のターニングポイントでした。特に取り柄のない自分が入れたのは、ビビリな性格と(空気を読む力がある人はこんな事を自分で言わない気もしますが)空気を読む力があったことから、わんぱくな小学生集団の中に入れておいた方がいいとコーチが思ったからでしょう。

特に猪俣コーチにはとても感謝をしています。こんなこと言うのはおこがましいですが、コーチ自身と僕が似ているところがあったから気に入ってよく面倒をみて頂けたのだと思います。当時頂いた金言の数々をサッカー人生で何度も思い出し、サッカーをする指針として持っていました。

エスカレーターで中学クラブに入ると、完全に周りのレベルについて行けず苦しいサッカー生活を強いられました。

泊まりの遠征で出た大会の2日目、チームで1人だけ1分も試合に出られ無かった日を今でも鮮明に思い出せます。コーチに出せなかった事を謝られたこと、帰った後の宿でからかわれたこと、誰もいない部屋に行って泣いたこと。

薄々気づいてはいましたがプロサッカー選手になりたいと言う夢は無謀だと言うことに気付かされました。

それでも頑張って途中交代で試合に少し関われる様になったり、悪ノリだったとは言えタレント揃いのチームで副キャプテンをやらせてもらえたりと、頑張った以上のリターンをもらえていました。

 

高校に入ると、今度は自分がチーム内でトップレベルの選手になりました。これまではベンチでワイワイやっていてたまに試合に出してもらうぐらいだった自分が、名門チーム出身で先輩からサッカーについての質問をされる様な選手に変わりました。

2年からキャプテンをやり、あろうことか自分がチームの練習内容を決める日々が続きました。

「西高にしてはなんとなくそれなりに強い代」みたいな期待をされ、「なんとなくそれなりに強かった代」で終わりました。当時を振り返ると、チームのために頑張っていました。ただ、その頑張りは「ただ頑張っていただけ」でした。

それに気づいたのは大学で部活に入ってからでした。入る前は、学生主体で部員も多くなく、都2部で強いわけでもないと言う曖昧な事前情報から、どこか高校と同じ雰囲気を想像していました。

入ってみると、リーグ運営から相手の分析まで想像の何倍も「学生主体」で、サッカーのレベルも高く、面食らってしまいました。本気でチームを変えようと努力している4年生たちを見て、大してサッカーを知らない、知ろうともしないで「学生主体」を謳ってキャプテンをしていたことに気づき、高校の部活の後輩や同期に申し訳なくなりました。

 

 

僕は彼らの血の滲む程の努力も身を捩る程の葛藤も経験していませんから簡単にこんな事を言えますが、プロを目指していた(いる)中学のチームメイト達のようにサッカーが好きで、サッカーに賭けることができればなあと考えることもあります。高校のクラスメイトのように夢や興味のために必死に勉強ができて羨ましいなあとも思います。

 

僕は何をするにも結果論で生きてきました。

高校受験も大学受験もサッカーも、本当に辛い努力からは逃げて、ある程度の結果が出れば満足する。入った団体では低い方に転がり、他人に言われる「やればできる」の言葉に満足していました。変化を嫌い、自分が行動を起こすことに使うエネルギーを逆算しては何かと言い訳を見つけて内弁慶で満足していました。

では4年間の部活を通してそんな自分が変われたかというと、そうは思っていません。その代わりだらしなくて努力を嫌う自分を認め、しっかりと理解した上で自分の役割は何か、できることは何かを模索できるようになりました。

自分の役割のようなものとして漠然と考えていたことをうまく言語化している動画があります。有名な動画ではありますが、TED TalksでのDerek Siversという方の話の一部を要約して引用させていただきます。

「ある人が運動を起こしたとき、(もちろんその人も大事ではあるが)最初の追随者(ファーストフォロワー)が他の民衆にどのように追随すればいいかを示すことがとても重要である」(https://www.ted.com/talks/derek_sivers_how_to_start_a_movement?language=ja 見てみてね)。

僕らの代であれば牛丸が「周りを巻き込んで運動を起こす人」であり、これは自分にはできないことです。ただ、牛丸のパワーに当てられて、コロナ禍でもグランドを使えるように色々と頑張ったり、きつい練習の時に一度は嫌がっても鼓舞する声を最初に出したり、ファーストフォロワーとして行動することはできました。僕は尊敬されている先輩第一位なわけですから、実際にある程度行動に移せていたのだと思います。多分これを読んだ同期は僕のことをそんないいものじゃないと思っているでしょう。ただ、自分に一番近い同期が自分の性格をしっかりと理解していてくれることが、少し無理してでも行動を起こすときに保険になっていました。

 

 

こんな僕が大学に入ってまでサッカーを部活で続けた理由は二つです。

かっこよく言えば、高校の同期でサッカーを続けるくっしーと敵として対戦したかったという理由と、ここまでやめずに頑張って来たサッカーをできるところまでやり切りたかったからという理由。

ダサい現実を包み隠さず言えば、くっしーとやるよね?みたいな会話をして大学入ったのに裏切ったら申し訳ないからと言う理由と、何かをやらされないと生活が堕落する自分が目に見えていたけど、新しい事を始める勇気はなかったと言う理由。

僕らぐらいの大学サッカーレベルでは、僕ぐらいなんとなーくで大学サッカーをやる人って意外と多いと思います。僕はそのタイプにしてはとても恵まれた4年間を過ごせました。特に、5バックなら1人ぐらいヘタクソでも大丈夫だったため、一年生から試合に出させて貰っていたのが本当にありがたかったです(一年の時は湯浅さんをはじめとした4年とわたるくんのぶくんが怖すぎて練習や試合が本当に嫌で、水曜の紅白戦に出ないですむと言う理由で学連に立候補したほどでしたが)。

二、三年コロナ禍、1人でただこなしている筋トレやランニングは、当然の如く全く楽しくもなければ身も入りませんでした。

普段何も考えずに生きている僕でさえ、なんでこんなことしているんだろう。と考える時間が結構ありました。

なんとか意味を見出そうと2年間を振り返ると、終盤に二発で逆転された朝鮮大との試合で感じた絶望や、失点続きで何もうまくいかなかった2019前期最後の成蹊大との試合でノブくんと抱き合って喜んだ無失点試合の様な場面が思い出されました。自分が大学生にもなって自発的に苦労してサッカーをしているのは、こういった記憶に強く残る感動を肌で感じることに中毒に似た感情を抱いているからなんだな、と思いました。

盛大に自分語りをしておいてこんな陳腐かつ後付けの理由しか見出せない自分が恥ずかしいけれど、実際に自分の中で言語化すると、少しスッキリして部活に向き合えるようになりました。

リーグ戦に参入すると、成城に勝った一試合目、玉川戦で廉太くんがPKを貰った時、恐ろしく嬉しい瞬間にまた立ち会える様になったことを実感し、やっぱりこのためにわざわざサッカーをやっているんだと自覚しました。

 

 

 

四年になり、その瞬間瞬間に当事者として立ち会うため、「全試合フル」の目標を立てて臨みました。今までよりも目標を立てた理由に自分が納得していたため、目標に向かっていろいろできたと思います。

一橋戦でこうせいが決めた三点目、理科大戦で出が決めた同点弾、様々な歓喜を味わい、自分のせいで負けた玉川戦、創価戦の逆転弾、理科大戦の無力感、さまざまな悔しさを味わいました。

特に後期武蔵戦で朋が点を決め、全員が死ぬ気で守り切って終了の笛をピッチ内で聞けた事は何にも変え難い喜びを感じることができました。また、後期玉川戦で分かってはいたけど自分にサッカーの実力がない事を痛感させられたことも鮮明に思い出せます。

どれもこれも実際に試合に出た方が強く感動するのは言うまでもないです。

僕自身が後輩のみんなや新入生に伝えられることや与えられる影響はほとんどないけど、特に目標や思うところがなく部活をしている人がいるのであれば、試合に1秒でも長く出る事にこだわってほしいと思います。

そこには病みつきになる感動があり、それはこの歳になってもそれだけでサッカーをやっている理由になりうるものです。

また学年が低いうちは特に、試合に出ることは自分の予想よりもサッカーの上達につながります。

自分自身、4年になってよしきも出られずチーム内でおそらく1番のセンターバックになっても、一年の頃にやった湯浅さんや2年間コンビを組んだのぶくんと今の自分を比較してモチベーションに出来たのは最後まで本当に大きかったです。

太郎はもちろん、古山やまりむ、ひろあきにも同じような影響を少しでも与えられていたらな。と思います。

 

 

自分より圧倒的に高いレベルでサッカーをした小中、自分より低いレベルでプレーした高校、(最終的には、ある程度)自分に合ったレベルでプレーできた大学と、さまざまな環境でプレーできたのは、結構珍しく、面白いサッカー人生だったと思っています。

また、副キャプテン、キャプテン、主務と様々な役職につけたのも、身に余る贅沢だったと自覚しています。

 

長い自分語りで稚拙な文章になりましたが、このぐらいで終わろうと思います。

 

最後に、I willは感謝で終わらなくてはいけないらしいのでさまざまな人への感謝を述べます。

まずはずっとご飯を作ってくれて、常に沢山の選択肢をくれた両親

大久保さん、猪俣コーチをはじめとする多くの指導者の方々

沢山教えてくださり、甘えさせてくれた湯浅さん、のぶくんをはじめとする尊敬すべき先輩達

最も可愛くない太郎をはじめとする可愛くない後輩達

気づけば随分と長い間一緒にやってた良太、ついにしっかりと対戦することはなかったけど大学サッカーのきっかけにもなったくっしーをはじめとする中高の同期

暑苦し過ぎる牛丸をはじめとする大学の同期

 

本当に人に恵まれたと思います。サッカーをしていなくても同期にも先輩にも親にも感謝する事にはなっていたでしょう。ただ、狭い世界しかしらない自分としては、最高の人達に出会えたと思っています。

ありがとうございました。

サッカー部応援しに行きます。頑張ってください!

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コメント: 1
  • #1

    猪俣孝一郎 (火曜日, 19 4月 2022 12:02)

    登場人物の1人です笑
    とてもいい文章を拝読させていただきました。
    人が「太陽」と「月」で表現できるとしたら、拡平は「太陽」タイプだったと思う。
    チームの軸だったし、ぶれない軸を持っているとも思っていたよ。
    チームの中心ではないかもしれないが、軸だった。
    間違った方向に行きそうなときに軸はブレずにいてくれる、そんな存在だったと思う。
    過去を振り返ったときに、良かったと思えるかは本当に大切なことだ。
    「良かった」と振り返ることができて送り出す側としても嬉しく思う。
    恩返しというのは返す先が2つある。
    「恩を受けた人」に返すことと「次の世代に紡ぐ」の2つだ。
    「I will」このような機会をいただき、感謝しています。
    第二の「拡平」を 育成できるよい指導者になります。

    三菱養和サッカークラブ
    猪俣 孝一郎

    追伸
    1点誤りを指摘したい。
    サッカーに「敵」はいないぞ。
    サッカーには「相手」がある。
    サッカーを共に楽しむ、皆仲間だ。
    拡平にはまだまだ教えることが多そうだな。
    なんちゃって。